「アメリカは日本文化をどう読んでいるか」 芳賀理彦 春風社 2018.12.25

 近年、国としてソフトパワーを高める観点からも、あるいは貿易政策としてもハード製品の輸出に加えてソフト・コンテンツの輸出が注目され、一方で実績として例えば韓国のコンテンツ輸出に完全に水をあけられている現状への危惧も表明されている。本書は、国際的にも高く評価されている我国の4人の作家、村上春樹、吉本ばなな、宮崎駿、押井守を採り上げ、主として最大市場である米国でどのように理解され受容されているかを、多くの批評家の論説を引きながら分析したもので、今後のコンテンツ輸出振興政策を考えるにあたっても一つの見方を提示してくれる。以下では村上春樹を中心(ノーベル文学賞の季節に盛り上がるメディアやハルキストには微妙な内容かもしれないが)に概要を紹介する。

 翻訳は原文言語文化の表象を作り出すだけでなく、対象言語の文化的カノンやパラダイムも変化させうるから、翻訳という行為は、歴史的、伝記的、理論的、哲学的間テキスト的文学批判に関するあらゆる要素が含まれる。文化翻訳とは現代翻訳における主要な概念で、未知の異文化に触れた際、その文化をどう解釈し受け入れるかである。

<日本文学の新しいイメージ>  

アメリカの批評家が村上作品におけるポストモダン的要素をどう解釈してきたか。ポストモダンの小説は、既存の文化や芸術表現に対して批評性を持ち、パロディ(メタフィクション)と歴史(政治)を融合させ、高尚芸術と大衆文化の境界をなくし、明確な目的を設定せず、原因と結果の因果関係を否定し、一貫した物語性や歴史性を破壊するものとされる。村上小説は、細分化された構造、言葉遊び、パロディ、自己言及性などポストモダニズムに共通したいくつかの特徴はあるがすべてを満たしているわけではない。

 1980年代~90年代、日米の政治的、経済的関係が大きく変化した時に、アメリカの人々は、安部公房、三島由紀夫、川端康成などに代表される日本文学や文化に対するステレオタイプなイメージを再考し始め、伝統芸術の固定化された概念を追認するのでなく、現代芸術のような何か新しいもの-実験的なものを探し始めた。村上の「羊をめぐる冒険」(1982)が「A Wild Sheep Chase」として翻訳出版されたのは、まさにそのような状況下であった。村上は伝統的日本文学の遺産である「島国性」を転覆させ、またアメリカの読者の抱く日本文化のイメージすべてに批判的であり「我々同様に、自分自身の生き方から疎外され遠ざけられているように見える」主人公にアメリカの読者は共感を覚え、そしてそのことが驚きを与えた。

 他方で、それまでの「反逆的」「西洋化」から、「歴史的」「政治的」「ポストモダン」という言葉で示されるように、別のステレオタイプと化すであろうイメージがいくつか用意された。「神の子どもたちはみな踊る」(2000)「After the Quake」(2002)は、アメリカでの大惨事の直後に出版されたため、自分たちの本として受け入れ、「普遍的(universal)」な作家というイメージが頻繁に提示され増幅された。村上が「ポストモダン作家」であるというのは出版社がアメリカ読者に本を売ろうとする市場戦略であり、批評家、研究者もそのラベル付けに無意識に加担しているのではないか。

 村上作品がアメリカで読まれている理由としては、批評家には「日本的な」から「西洋的な」まで両極端があるものの、主に「資本主義の枠組み(何が売れるのか)」と「西洋文化と東洋文化の違いについて知りたいという欲求」に基づいて翻訳対象が決定されていることを踏まえ、「西洋化した現代日本」というアメリカ人にとって分かりやすいモデルを示すことで支持を得たという。そのモデルが本物かどうかは別問題で、「文化は実際の地理や歴史によってではなく、消費経済の論理により規定されるものだから」(Will Slocombe)である。

 村上作品にある謎や不条理さの解釈についても、「日本的」「非西洋化」の表れあるいはマジック・リアリズムの観点からの解釈といったオリエンタリズム的な見方もあるが、ミステリーやゲームにも使われている読者を飽きさせないための技法に過ぎないとの見方が、海外での支持をよく説明できる。コンピュータゲームやアニメ、漫画が日本同様アメリカで人気得ているのと同じやり方で、読解に熱中できる機会を与えている。

そのプロセスで批評家は様々なイメージを形作ったのである。

 結局、村上作品が変えたのは、日本文化やアメリカの読者の態度ではなく、彼らが日本文学に見たいと思っている日本のイメージの方なのである。日本文化に関する偏見を取り去り、多様な視点を与えることに成功したわけではない。

 なお、補章「村上春樹『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』の翻訳の比較」において、両作品の二人の翻訳者(Alfred Birnbaum、Ted Goossen)による訳例を対比することにより、翻訳作品の差異、作品の意図がどのように伝わるか伝わらないかを分析している。例えば、男性一人称としてほとんど「僕」を使い社会的成熟度や公共性の高い「私」、封建主義的男性性を示す「俺」は使われないが、英語ではすべて"I”でニュアンスが失われる。村上作品の男性は、基本的に女性に対して暴力的であったり強権的言動をとったりせず、掃除や洗濯、料理など家事一般をこなすことから、多くの近代日本文学作品に登場する父権主義的な「マッチョ」な男性像とは一線を画しているものの、受動的でありながら女性に依存しつつ現実にコミットしていくという戦後日本人男性のまた別の典型的表象となっている。そのような表象にとって「少し甘えを含んだ」ナルシスティックな「僕」という一人称代名詞は非常に重要なものとなるが、英語翻訳では対応できない(斎藤美奈子)。また、日本語にとっての外来語は英語にとっては他の語句との差異はなくなっている。従って、日本人にとっては異文化である西洋文化の過度なまでの表象という原文の持つエキゾチシズムは完全に失われている。また、作品中にある多くの比喩的表現が大幅に省略され、アメリカの読者が新たな日本文学のイメージを形作る一つの要因となったと考えられる。その他多くの明らかな誤訳が、そのまま容認され翻訳出版されているという。

 村上作品の一方で西洋的普遍的、一方で日本的であることの意味は何か。

 普遍的に「異なり(foreign)」ながらも普遍的に「理解可能(accessible)」なテキストだという(Mathew Richard Chozik)。即ち世界のどこで読まれても共感と違和感を同時にもたらす。その理由として、①日米の読者両方になじみのある暗喩やテーマ、政治的事件を使用、②そのモチーフを予期しないような形で表現、すなわち異化、③プロット、キャラクター、舞台、語法、身体表現が曖昧で多義的なので、様々な矛盾した解釈に作品が開かれている。

 西洋文化のアイコンは日本文化圏の他者のもの(foreign)で、西洋文化圏の読者にとっては自己のもの(familiar)である。対して日本文化に関する要素(意外と多く、60~70年代の学生運動の歴史、第二次大戦と大戦後のアジアにおける暗い記憶など)は、逆の意味になる。このバランスが絶妙なのだが、近年の村上作品は世界中で翻訳されることを前提に半ば意識的にこれらの要素をバランスよく配置し、グローバルマーケットのニーズに対応しているという。

<少女カルチャーの翻訳(不)可能性>

 吉本ばななのアメリカにおける受容について、少女カルチャーの影響を強く受けた文体には多くの翻訳困難あるいは不可能な要素がある。

 1998年時点での(その後も維持されるが)アメリカでの印象は、古い日本文化と、新しい日本文化の完璧な融合というもの。即ち、古典的な日本の美学にある「もののあわれ」、「繊細な」、「細やかな」、「儚さ」、「移ろいやすさ」に対して、日本の漫画に見られる新しさー中性性、幻想世界、超常現象が加わり、「悲しい」、「癒される」、「希望」となっていったという印象である。

 2000年以降「白河夜船」(1989)「Asleep」(2000)以降、アメリカの読者にも馴染みのある普遍的なものという読み方がされる(「日本のサリンジャー」)。現代に生きる我々自身の現実と人間性について表現したものとしてである。もともとアメリカの出版社が翻訳するのは、それほど日本的でない、つまり日本に関心のない一般読者にも受け入れられるからであった。

 「ハードボイルド/ハードラック」(1999)「Hardboiled & Hard Luck」(2005)から3つのイメージとして定着する。①重厚なテーマ「喪失」「死」「愛」「女性の友情」を軽くてシンプルな文体で語る。②霊的で心理学的なモチーフ、「正当なフロイト的スタイル」で「超自然現象を自然」に語る「精神的触媒」となるような作家。③伝統的な日本文学や文化と、現代の日本漫画の両方の影響を強く受け、それらを融合した小説を書く。

 ジェンダー問題に触れた批評は多くない。登場するのが女性と呼ぶには子供っぽいからか。ただ、ジェンダーに限らず吉本ばななには保守性があり、例えばアジア諸国に精神的な癒しを求めて旅をするが、封建的な日本社会からの一時的逃避の場、エキゾチックな癒しの場と見なすのは典型的なオリエンタリズムである。これは、日本人の観光市場ニーズに合致しているとも指摘(Ann Sherif)される。他方でまた 翻訳については、非西洋圏の女性作家の作品が、西洋のフェミニストのイデオロギー戦略に沿った形で歪められる危惧がある。

 「キッチン」(1988)「Kitchen」(1993)のSandra Buckleyの翻訳についは、その「自国化(domestication)」と「外国化(foreignization)」を同時に達成しており、そのため2つの異なった受容のされ方をされている。日本的「もののあわれ」と、まるでアメリカの小説というものである。日本人女性の新しいイメージを提示し、部分的にアメリカ風というもので、アメリカ人の持つステレオタイプを書き換え、結果としてアメリカに新しい小説の市場を生むという成功を収めた(Jamie Hacker)。

 他方で、翻訳では次の原文の5つの修辞法をすべて失い、全く違う印象になっているという(Senko Maynard)。①状況から動作主に移動する視線―多くの日本文学作品にあるもの。②動作主より話題を優先する視点―これも多くの日本文学作品にあり、間接的に感情を表現する。③自己引用―主人公の複雑な内声を表す「思う」を多用。英語では「think」の多様を避ける言語的特性がある。④文体変化―「だ」「である」調と「です・ます」調の切り替え。⑤自己言及法の操作ー一人称「私」を故意に用いると、語りの主体が前景化される。英語は常に"I″が使われる。

 吉本ばななの革新性は、少女カルチャーの影響を受けた文体を、日本文学と文化の中心に持ち込み、封建的で父権主義的日本社会に挑戦した点にある。これが翻訳上欠ければ保守的で未成熟な側面のみ強調されることになってしまう。

<日本文化と歴史の新しい表象>

 宮崎駿はアメリカの一般家庭においても、既にスタンダードになっている。批評家からも注目されているのは次の4点。①現代日本社会や日本人のアイデンティティーの表象、文明と自然の関係のような普遍的社会問題の表象。②ディズニーアニメとの比較。③ハリウッド映画にはない日本アニメの可能性。④現実の日本人女性と作品の女性像との関係。

 宮崎は、黒澤明や小津安二郎の映画に比べても日本文化のグローバル化に重要な働きをしている。例えば「もののけ姫」では、日本文化や社会の中心にある数々の神話を脱構築し、新しいイメージを提示(Susan Napier)。主人公を侍ではなくアイヌの若者に設定してトップダウン式の日本史観に挑戦、また、近代化以前は自然と共存していたという従来の理想化された概念も覆している。

 また、「千と千尋の神隠し」では、伝統的な神道の神々が銭湯に入るのだが、現代風の建物、乗り物、機械、道具などとともに描かれ、我々同様、良いことも悪いこともするし、欲深くもあり寛大でもあり、多様で流動的なイメージとして現実的な日本文化を描いている。宮崎作品は日本文化、日本人のアイデンティティーの多様性、複雑性、柔軟性を表現しているが、他の文化に対しては西欧の描き方がステレオタイプであるように、同様の批判的視点があるかは疑わしい。

 ハリウッドにはない新しいメディアの可能性としては、次の3つの要素に還元される。①複雑な物語性や人物描写、多岐にわたるジャンル、作画やテーマの多様性。②現代日本の新しいイメージ。大人でも共感可能な複雑な個性を持った少年少女の主人公たち。③シーンの背後にある複雑なコノテーション。これらの要素は、現代アメリカ文化の様々な側面に浸透しつつあるという。

 宮崎に対しては、村上、吉本に対するような偏見やステレオタイプな視点は少ない。アメリカにおける日本アニメ研究の水準は、ポップカルチャー全体に言えるが中立的客観的で、現代日本文学研究のそれより高いことを示唆している。

<文化交流・インターフェイス・翻訳の場としてのアニメーション>

 押井守の「攻殻機動隊」におけるサイバースペースの概念は、Wendy Hui Kyong Chunのそれにほぼ一致し、「現実社会のイメージ群で構成されたもう一つの完全な現実のこと。そこでは、私的領域と公的領域の境界があいまいになり、われわれのアイデンティティーがどちらにあるのかもはや不明」とする。

 主人公の草薙の不安は、サイボーグとサイバースペース文化に特有のものである。旧来のフェミニズム(精神と身体、動物と機械、唯心論と唯物論といった二項対立に縛られている)に、サイボーグの比喩を用いて挑戦し、今日のジェンダー論の発展に貢献しているという。人類は様々な機械、道具の助け(義肢からコンピュータまで)を借りて生活しているという意味ではすでにサイボーグ文化の中で生きているというのである。

 敵役の「人形使い」は人間の生命体としてのアイデンティティーの定義の脆弱性を指摘している。身体を持たずかといってAI(人工知能)でもない。「自分は『情報の海で発生した生命体」なのだと自らを規定するが、これこそ身体性から解き放たれたサイバースペースにおける新しい主体の完璧な表象である。

Susan Napierによれば「攻殻機動隊」には仏教と神道という日本の2つの宗教観が表れているという。例えば「マトリックス」での全知全能の神のようなホスト・コンピュータがサイバースペースを制御するような単一の統治者は存在しない。

「人形使い」が、神のごとく新しい世界を作り上げようとするのはキリスト教的神のメタファーであり、対して草薙はネットの中に拡散し、世界の一部となることを望む。そして二人の結合は東洋と西洋の宗教的一体化のメタファーとなりえるという。

「攻殻機動隊」は、アメリカ人の観客が日本のハイテク・ポップカルチャーに抱く期待に過不足なく応え、かれらのオリエンタリズムに対する欲求を表層的なレベルでも深層的レベルでも満たすことができる典型的な作品である。特にサイボーグ体の女性主人公という表象は、Danna Harawayのサイボーグ・フェミニズム理論を適用したい研究者にとっては格好の題材だという。

 終章の<文化翻訳の試み>で著者が指摘しているように、他文化というものは本当に理解可能なのかが最重要な問いである。Kevin Robinsは文化翻訳を通じて「他者」に耳を傾けることを学び、「他者」と対話することを学ぶことによって我々は「他者」に対して開かれていなければならないと指摘している。

他方、本書でそれぞれの作家について語られていることは、他国で受容されていることと理解されていることとは、全く別の次元の事柄であるということである。村上春樹が世界的に成功を収めた理由について、Emily Apterの翻訳理論では、非西洋圏の作家や芸術家の作品が翻訳され国際的に流通するかどうかは、その作品が優れているかどうかでなく、その作品の翻訳が既に存在していて、理解されやすいかどうかによって決まるという。本書で示唆されているように、村上作品が、翻訳先の各国において理解されないこともエキゾチシズムとして受け止められることまで計算されているとすれば、改めてその別の凄さに唸らざるを得ない。

(見城 中)

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